このコラムを書く前年の2019年4月から、ある学校の非常勤講師として音楽の授業を担当しています。
私自身の教員生活は過去13年間は高等学校を受け持っていましたが、
この学校では中学1年生を担当しています。
初めての中学生、戸惑いもありながらも、楽しく過ごしています。
ところで、かなり昔から中学1年生の音楽の教科書に掲載されている音楽鑑賞の曲があります。
それは、ヴィヴァルディ/四季より「春」の第1楽章。
私が中学1年生だった時にも学習しましたから、相当長い期間中学1年生の音楽の授業で音楽鑑賞をしてきていることになります。
そして、私も一応今年度の音楽の授業で取り上げてみたのでした。
さて、授業をしてみて思ったことがいくつかありました。
そのことを今回のコラムでは、私なりに考察してみたいのです。
この曲、ソネット(Sonnet)という詩を元に構成された楽曲なので、その詩から読んで実際の音楽がどうなっているのかを分析していくことにより、音楽の理解が深まり、音楽の楽しみ方が増していく、そんなことを学習していく目標があります。
でも、なんとなく授業でこなしてみて限界を感じてしまったことがありました。
その限界とは?
それは、ソネットの意味と実際の音との間にギャップが生まれてしまったということです。
例えば、鳥たちが鳴くところ、ヴァイオリンが3台で鳥の描写をしているのですけど、
どうも生徒の中には「鳥には聞こえない」といった反応があったり。
あるいは、水の流れを描写しているところ、水の表現を音楽的にはどのようにヴィヴァルディは表現したかったのか説明しても、水とか川みたいな想像が音からは働かない生徒がいたり。
雷鳴と雷みたいな自然描写なんか、もっとわかりやすいかと思えば
「そんな雷の音は聞いたことがない」と一刀両断!
確かにね、ヴィヴァルディの時代の音楽に、そんなにも正確な自然描写を要求されても困るのですけど、
生徒の反応は正直ですから、この否定的な意見は貴重な分析データになります。
そこで、生徒の中にあった否定的な観点からヴィヴァルディの作品を聞いてみました。
すると、思わぬ発見が!
その発見、実は日ごろ演奏されているヴィヴァルディの四季、楽譜にある音に忠実であることから、ソネットから連想される音の風景が見えてこないということ。
音楽的にいい演奏かどうかと、文学的、自然描写的な演奏なのかどうかは、ひょっとしたら次元が違うのか?
そんなことを考えるようになりました。
ひょっとしたら、演奏家は楽譜は読むけど、ソネットは読まないのかも?
でも、以下の動画みたいな演奏だと、案外ソネットをよく読みこんでいるかも?
さて、なんでこんな文章を書いているのかといえば、単純な理由。
それは、これを書いている2020年2月に、ヴィヴァルディの四季の全曲を演奏する機会が私にあるからです。
音楽教育者として音楽に接するのとは違い、コントラバス奏者として演奏体験を持つことになります。
だからかなあ、正直に思えば、音楽の授業で録音や録画でこなすよりも、
生の演奏でレクチャーすれば絶対にいいし、確実に理解度は増すし、クラシック音楽のファンを開拓するきっかけになるかもしれないと思います。
となれば、私たち演奏家は、どんなヴィヴァルディの四季を演奏するのかなあ?
これを書いているときは、まだ公演の2週間以上も前の段階。
でも、少なくとも、私たち演奏家もソネットの内容は読んでおきましょうか。
そうでないと、演奏しても楽曲の中身は伝わらないでしょうからね。
果たして、この演奏ではどんな音の風景になっているのでしょうか?
2020.2.4